食べるということ

「初夏」というお題をいただいて書いたエッセイ。
ちょっと初夏からずれた内容になったけれども、まぁいいよね。

 東京でフリーランスをしていた三十七歳のとき、仕事が回らず行き詰って困っていたところ、北九州で釣り雑誌を作っている出版社に拾ってもらい、門司港に移住した。仕事柄ということと、自宅から海まで三分という環境もあり、当然、釣りが趣味になった。
 釣り針に餌を付けて、海に向かって投げると、閉じ込めていたいろんな感情が一緒に飛んでいく。新宿のビルの底から見上げた空は四角いけれども、関門海峡で見上げる空はどこまでも高く広い。背伸びすると、どこまでも伸びていきそうだ。
 錘がゆっくりと沈んでいき、着底すると竿がほんの少し軽くなる。リールのハンドルをゆっくり回して糸を張る。神経を集中させていると、まず小魚が餌を突っつき、微妙に竿に伝わってくる生命反応に気持ちが高まる。そして、結構な衝撃とともに竿先が大きく曲がると、反射的に竿を立てて魚が針に乗ったことを確かめる。急いでリールを巻きとっていく。そして、魚が水面まであがってくると、ゆっくりと竿を持ち上げ、糸を手繰り寄せる。この瞬間がたまらない。
 ある年の五月、僕は漁港でタコ釣りに挑戦していた。ルアーを投げて、ただリールのハンドルを回し、糸を巻き取るだけの単純な釣りだ。タコがルアーに騙されるまで、投げては巻き取るという操作を繰り返す。
 漁船の脇で急に竿が重くなった。根掛かりしたかと思い、大きく竿を立てると、海底を引きずるような感触があった。半信半疑のまま、糸を緩めずにゆっくり巻き続けると、一キロはある大きなタコがかかっていた。初めてのタコ。しかも大物だ。タコ焼きにしようか、チャーハンに入れてもいい。刺身で食べてもいいし、タコ飯なんかもおいしい。一刻も早く食べたくて、すぐに釣りをやめて家に持って帰った。
 早速、シンクにタコを放す。八本の腕を波打たせながら動き回る。その動きは意外と早く、ちょっと目を離すとシンクから逃げ出している。しかも、シンクに戻そうとしても、腕にびっしりと並んでいる吸盤で貼り付いて離れない。大きく飛び出た金色の目で僕の目をじっと睨みつけながら。
 タコを〆るには、目と目の間を千枚通しで深く突き刺す。タコは死なないけれども、全身が麻痺して抵抗しなくなる。いわゆる神経締めというやつだ。と、ユーチューブの動画が言っていた。
 貼り付く腕を一本ずつ引き離し、タコを何とかシンクに戻して、千枚通しを手に取った。睨みつけるタコの金色の目にたじろぐ。意を決して、目と目のちょうど中間に千枚通しを突き立てた、つもりだった。千枚通しが突き刺さった位置を境に、右半分だけ真っ白になった。当然、タコは暴れまわる。金色の目が怒っている。
「ごめん、ごめん。今度はちゃんとするから」
 僕は、千枚通しを抜き取ると、もう一度、目と目のちょうど中間に突き立てる。また、外したらしい。タコはさらに暴れる。
「本当にごめん」
 何度も千枚通しでタコを刺した。ようやく死んだタコを見て、殺したという実感がわいた。首を垂れて、手を合わせた。
とっくに食べる気は失せていた。食べないという選択肢もあったけれども、僕は食べた。そのために、タコの命を奪ったのだから。その責任を取るために、ちゃんと味わった。一キロもある大物だ。刺身、タコ焼き、タコ飯にして、残さず食べた。
 新鮮で、身が引き締まっていて、とってもおいしかった。

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