小説「骸人」

 休日は天気さえ良ければ、一人で山にこもることにしている。暗くなる前にこっそりと山に分け入り、深い場所まで歩いて一晩過ごす。古木や岩を避け、目立つ幹に黄色のチョークで印をつけながら進む。足元は厚い落ち葉の層でやわらかく、常にぬかるんでいて、ともすれば足を取られる。先日降った雪が、山肌をところどころ白くコーティングして、力を失った世界に安らぎを与えている。
 車のエンジン音が聞こえなくなった。立ち止まって、純度の高い空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりとあたりを見渡す。
「ふぅ。この辺でいいか」
 そろそろ日が落ちる。木と木の間に平らで開けた場所を探して、一人用の小さなテントを張った。テントの入り口にビール一缶、カップ酒三本と紙コップを置く。そして、コンビニで買ったバターロールの袋を開けて、十手ナイフでパンに縦に切れ目を入れ、タッパーに詰めてきたレタスやサーモン、ソーセージを挟んで、紙皿に並べた。準備が整ったところで、腕から上をテントから出して仰向けに寝転がって夜を出迎える。
 日の灯が山の向こうに落ちると、じわじわと冷気と影が染み入って鮮やかさが奪われていく。次第に奥行きが飲まれ、輪郭が滲んで、最後には闇の中に物の名前が溶け出してしまう。そして、冬の夜空に、思いだけが浮かぶ。無数に瞬く数億年前の光を浴びながら、この瞬間を感じるのだ。

 もうかれこれ五時間は飲んでいる。気分よく立ち上がると、少し下ったところにある大木の根元まで用を足しに行く。足元を確認しつつ少し傾斜のある坂をゆっくりと下りて、一抱えほどある幹の向こう側に歩いていくと、出合い頭にぶつかった。
「うわ」
 反射的に後ろに飛びのき、その場で座り込む。見上げた先には、太い枝からだらりと人がぶら下がっていた。大きく木が揺れて、死体がくるりとこちらを向いた。暗いところからじっと私を睨んでいる。その視線に釘づけにされ、身動き一つできない。全身に鳥肌が立ち、こめかみに脈打つのを感じる。風で一斉にこすれあう葉や枝の音、地面から立ち上る冷気、見つめるほどに深まっていく闇。心地よかったすべてが恐怖を煽り立てる。
 ぬかるんだ地面がひやりと尻を濡らした。死体から視線を外し、機敏に首を動かしてあたりを見まわす。そして、冷たい空気を深く吸い込んで、長く吐き出した。手と足の筋肉に順番に力を込めてぎこちなく立ち上がる。
 ぎゅっとこぶしを握り、一歩後ずさりする。そして、少しずつ視線を上げていく。表情はわからないけれども男性だ。真ん中分けのラフな髪型、青いダウンジャケットを着、ベージュのズボンを履いている。これは亡くなった人なんだ、そう言い聞かせ、震える両手を合わせて一礼した。
 一足ごとに振り返りながら坂を上がり切ると、数メートルを全力疾走し、靴も脱がずにテントにもぐりこむ。震えが止まらない。目を閉じると、瞼の裏に男が浮かび上がってくる。既に午後九時を回っていて、深い山の中を移動するのは得策ではないし、そんな勇気もない。
 両手の指を組み合わせ、祈りながら体をぎゅっと縮こまらせて、彼に見つからないように息を殺す。何も追いかけてこないことは、わかっている。でも、本能が逃げたがっているのだ。

 体が温まり、気持ちが少し落ち着いた。耳をそばだててみるが気配はない。ときどき風で木々が揺れる音がするくらいでとても静かだ。音を立てないようにすくめていた首をのばし、テントの中を確認する。大丈夫だ。ゆっくりと上半身を起こし、大きく深呼吸する。
「ふぅ」
 手探りでリュックのポケットから、時代遅れな二つ折れの携帯電話を取り出して時間を確認する。午後九時三十三分。それから、画面の明るさを頼りに、懐中電灯を探して、スイッチを入れる。LEDの強いけれど、それほど明るくない白い光が、テント内を照らした。リュックや寝袋、自分の腕が、確かな輪郭を持ってそこにあった。
「そうだ、警察」
 携帯電話で「110」とダイヤルしてみるものの、画面の上部に「圏外」 と表示されていた。腕を伸ばしてぐるりと一周してみるが、電波を感知できない。
「しかたない」
 リュックの脇に置いてあった、ペットボトルのお茶を一口飲んで、喉の渇きを潤す。
 葬儀以外で人間の死体を見たのは初めてだ。彼は、真っ暗な森の中でうなだれて風に揺れていた。青いダウンジャケットのイメージが脳裏に焼き付いて離れない。四十代から五十代くらいで、中肉中背のように見えた。死臭は感じなかった。死後それほど時間が経っていないのかもしれない。男は、どうして死ぬことになったのだろう。家族はいるのだろうか? 何もわからないけれども、この場所を選んだ理由はわかる気がした。
 死にたいと思わないまでも、いなくなりたいと思うことはある。誰と話しているときでも、意思の疎通は図れるのだけれども、言葉が心に届かない。共感できないもどかしさと違和感をいつも胸の奥に抱えている。誰が悪いわけでも、何が悪いわけでもない。
 もちろん、友だちといれば楽しいし、仕事もそれなりに充実している。でも、それは、戦時中でも笑うことがあるように、本質とは違う次元で湧き上がるうわべの感情だ。存在の形がいびつとでも言おうか。箱を小さなビニール袋に無理やり押し込めるような息苦しさを感じているのだ。そして、その息苦しさでいっぱいになると、何もないところに逃げだしたくなる。だから、今、ここにいる。
 寒空の下、一人で木にぶら下がっている男が不憫に思えた。
 テントという安全な領域を確保したところで、尿意を思い出した。気持ちに余裕ができたものの、男がいるとわかっているテントの外はやはり気味が悪い。貧乏ゆすりで気を紛らわせるが限界は近い。
 テントから頭を出して、懐中電灯のスイッチを入れ、前方を照らしてから外に這い出た。男がいる木とは反対方向に歩いていき、少し開けた場所で用を足した。やはり懐中電灯の明かりがあると安心できる。
 夜空を見上げる。

 ふと、一年ほど前に亡くなった従兄の寛大(のぶはる)のことを思い出す。母の兄にあたるおじさんの長男で、亡くなった当時は一つ上の四十五歳。百八十センチ近くある長身で、バランスの取れた体格に、整った顔をしていて誰からも好かれる男だった。
 ただ、線の細く、傷つきやすいところがあった。三十九歳の時、離婚を機に心のバランスを崩して、身を隠すように団地で一人暮らしを始めた。幻聴や幻覚に悩まされ、現実の中に幻が入り乱れて、うまくコミュニケーションが取れない。彼を諭そうとしたり、説得したりしようとすると、暴言を吐き、暴れた。
 ある日、寛大から電話がかかってきた。
「やくざに追われてる。かくまって欲しい」
 真剣にそう訴える寛大に、私は電話を切って逃げ出したくなった。やくざなどいない。しかし、彼は、切迫した口調で捕まると殺されるとまくしたてている。
「わかった。とりあえずうちにおいで」
「しんちゃんのところは、すぐにばれてしまう」
「じゃ迎えに行く。作戦は会ってから考えよう」
 急いで車を飛ばし、寛大の自宅へ向かった。運転しながら彼の両親に電話して、いきさつを説明する。
「早く乗って」
「もう、だめだ。見つかる、見つかる」
「大丈夫。少なくとも今は安全だから」
 後部座席で頭を抱え、怯え続ける寛大を落ち着かせることが最優先だ。そして、車をでたらめに走らせ、時間を稼いでから、自宅に近いビジネスホテルの駐車場に入った。
「早く、早く。見つかる」
「大丈夫。ここなら誰にも見つからないから」
 訝しがるフロントの目を気にしながら手続きを済ませ、寛大を部屋に連れていく。カーテンを閉め、部屋の明かりを最小限に落とした。そして、彼の背中をさすりながら、大丈夫、大丈夫と呪文のように唱え続けた。
 こうした寛大の妄言は、病状が悪化するにつれてひどくなっていく。そのたびに、騒動になり、彼の両親や兄弟、彼に近い者は、神経をすり減らせた。寛大を思うからこそ、私も苛立った。病気さえ治れば、昔のようなスマートな寛大に戻れると信じて疑わなかったからだ。そんな思いが、寛大を追い詰め、壊していった。そのことに誰もが気づいていたけれども、どうしようもなくて傍観していた。
 そんなとき、寛大は前触れもなく死んだ。症状を抑えるために処方された睡眠薬を多めに飲んで、ふらついて頭を打ち、鼻血が気道をふさいで窒息した。早く治りたいという焦りが、薬を多く飲ませたのだろうか。あまりにも突然に亡くなったので、その死を受け入れるどころか、嘘だとさえ思えた。
 通夜が始まる前に、祭壇の前に置かれた棺の中に横たわる寛大を見た。スポーツが得意で、格好悪いことが大嫌いな寛大が、狭苦しい木の棺の中に納まっていることが、不自然に思えて仕方がない。丸くて大きな目は、穏やかに閉じられ、きれいに髪が整えられている。正義感が強く、自分を犠牲にすることを厭わない優しい男だったが、表情にその性格がにじみ出ていた。
 しかし、肌は土気色で力なくたるんでいて、ところどころ紫に変色している。鼻には綿が詰め込まれて、唇の隙間から渇いた歯茎が見えた。何十年かぶりに、そっと頬に触れてみた。手のひらに、冷たさが染み渡る。氷の冷たさとは違う、あきらめを促す深く悲しい冷たさだった。

 私は、人知れず命を絶った男を弔いたいと思った。せめて自分だけでも寄り添えれば、彼の魂が浮かばれる気がした。テントに戻ると手袋をつけ、毛布と懐中電灯を持ってテントの外に出た。さっきよりもずっと気温が下がっている。雪でも降るんじゃないかと思うほどだ。肩に毛布を掛けて、男がいる木の方へゆっくりと坂を下っていく。
 坂の途中で足元から視線を外し、顔を上げて男を見る。上半身が闇にまぎれて宙に浮いているように見えた。怖ろしくて足がすくむ。しかし、懐中電灯で照らすことはためらわれた。死は、暗闇と静けさの中にあるべきだ。
 坂を下り切ると、男がいる木の前に洗面器ほどの岩が地面から顔を出していたので、枯れ葉を払ってその上に腰を下ろした。尖った岩肌が尻の肉に食い込んで少し痛い。木の根元からは、十メートルも離れていない。肩に毛布を掛け直して視線を上げていく。
 地面に置いた懐中電灯の光が間接照明となって、おぼろげだった輪郭がしっかりと浮かび上がり、気味悪さが薄れていく。木の根元には、プラスチック製の折り畳み式踏み台が転がっている。男は、四十代か少し年上見える。身長は百七十センチほどで、ダウンを着ているため体形はわかりづらいが、少し痩せているようだ。少し長めの髪が顔にかかって、表情は読み取れない。
「なぁ、どうして死んだ?」
 この男と寛大どこか似ている気がした。
「話、聞くよ」
 静かな風が、木々の間を通り抜けていく。
「何か、できることはあるか?」
 ぼんやりと男を見ていると、青いダウンの右ポケットからメモ用紙が突き出しているのに気が付いた。私は立ち上がり、恐々近づいてメモを抜き取り、開く。万年筆で書かれた雑で小さな字が滲んでいる。いくつか字を訂正していて、気持ちが揺れているように思えた。

見つけてくれた人へ
平成三十一年二月十日。私は恨まれています。もう誰もいません。何もありません。最後のお願いです。ここに埋めてください。それで浮かばれます。木の根元にシャベルがあります。

 メモをズボンのポケットにしまい、懐中電灯でさらに下った反対側の木の根元を照らすと、茂みで隠すようにリュックと登山用の折りたたみ式シャベルが木に立てかけてあった。リュックを地面が開けたところまで持って出て、ファスナーを開く。出てきたものはナイフとお茶のペットボトル、万年筆、小銭入れだけだ。サイドポケットなどを丁寧に探してみるが、男の身元がわかるものは何もない。
 私は、岩の上に座り、もう一度メモを読み直す。二月十日。男は三日前に、ここで命を絶った。返しきれない借金を抱えたのかもしれないし、誰かを裏切って信頼を失ったのかもしれない。あるいは、騙され、裏切られ、捨てられ、誰一人信用できなくなった被害者なのかもしれない。善人であろうと、悪人であろうと、その孤独が私を捕える。
 木の棺に詰め込まれた寛大の表情が、フラッシュバックする。自分もこの男も、そして寛大も同じだ。死ぬことを選べないのなら、孤独と絶望を生きる条件として飲み込むしかない。生きることは、覚悟と選択の連続だ。選択を迫られるたびに、存在の歪さを実感し平凡を装う。それが恐ろしくて仕方がない。冷え切った地面に両手をついて、うなだれた。
 遠くの方で、かすかに車が走る音がした。頭を上げて、男を見た。ここに彼を埋めるのは、死体遺棄だ。朝を待って、警察に連絡した方がいいのではないか。この男について、何も知らない。罪を犯してまで、弔う必要があるのか。自分がやろうとしていることが急に恐ろしくなった。メモの内容を知らなかったことにしても、誰にも咎められない。このままテントに帰って、朝を迎えればいい。
 私は、ゆっくりと立ち上がり、男に背を向けた。
「見捨てるのか?」
「見捨てるんじゃない」
 目をつぶって、テントの方へ足を踏み出すと、ポケットの中でメモが音を立てた。
「くそ」
 木の根元まで歩いていき、シャベルを手に取る。木の根元から一メートルほど離れたところに、勢いよくシャベルを突き立てた。地面を突き刺す雑味のある音が静寂を汚した。シャベルに足をかけて、力を込めて踏みしめ、取っ手を倒して土を掘り始める。水分を吸った腐葉土は重い。
 額に冷たさを感じて見上げると、雪が落ちてきた。明るくなる前に、終わらせたい。彼の願いを知りながら、放置すれば呪われてしまうような気がした。もう、後戻りはできない。
 高さ二メートル、幅一メートル、深さ一メートル以上の穴を掘る必要がある。想像以上にきつい作業だ。木の根と大きな石が邪魔する。汗が流れ始めた。ダウンジャケットを脱ぐと、山の澄んだ空気が体を一気に冷やしてくれる。私は、作業のスピードを上げていく。

 私は、掘り終えた穴の縁に立ち覗き込む。落ちた最後、二度と戻ってこられないような気がした。男のリュックからナイフを取り出し、踏み台を彼の足元に立てると、合掌し、一礼してから踏み台に上った。ふわりと死臭が漂ってきた。息を止めて、枝に括りつけられているロープにナイフの刃をこする。
 前髪の間から男の顔が見えた。見た目の印象より痩せていた。目は閉じられているが、開かれた口から舌が頭を覗かせている。苦しんだのかもしれない。目が大きく、鼻筋が通っていてきれいな顔をしている。彼が死ぬ前に知り合っていたら、友だちになれただろうか。
 ロープが切れ、衝撃音とともに男が地面に叩きつけられた。うつ伏せで上半身が穴の外にはみ出し、左手は体の下に、右手は万歳している。枝に残ったロープを切り取り、踏み台を降りた。ロープを切れば、自動的に穴に落ちてくれるとイメージしていたが、そうはうまくいかない。
「ふぅ」
 男の両脇に腕を通し、ゆっくりと上半身を持ち上げた。完全に脱力した人の体は重い。ゆっくり穴の端に頭が来るように、男の体を引きずっていく。足元に周り、不自然に曲がった足を整えて、両手を腹の上に乗せる。そして、岩の上に座って、穴に横たわる男を見た。そこには、寛大がいた。苦しみから解放され、安らいだように見える。
「これで、いいか?」
 空を見上げた。ぼたん雪がふわふわと舞い落ちてきて、こんもりと積み上げられた土を白く飾り付けていく。私は、立ち上がり、合掌して静かに目を閉じた。
「ごめんな」
 テントを片づけると、リュックを背負った。ひどく疲れていたが、背中が軽くなったような気がする。もう、ここに来ることはない。湿った枯れ葉を踏みしめて、歩き始めた。

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