小説「臍顔」

 直樹は、一度天井に目をやって、深呼吸してから言葉を吐き出した。
「今日さ、リストラの発表があって、会社を辞めてきた」
 香織は、味噌汁のお椀を置き、箸を持ったまま、目を真ん丸にして直樹の顔を見た。
「え? 何?」
 直樹は、目を伏せがちにしながら、何でもないような声で続ける。
「子会社への出向を命じられたんだけど、営業職なんだよ。だから、辞めることにした」
 五月二五日に以前から噂されていたリストラが断行され、直樹は子会社への出向を命じられた。入社以来十年以上、システムエンジニアとして勤めてきたのに、出向先では営業への転属となるという。
「井上くらいのベテランになりゃ、営業くらい余裕だろう? だってさ。ふざけるなだよなぁ」
 直樹は、唇を尖らせて課長の口調を真似て言う。これまで華々しい業績を上げたわけではなかったが、厳しい労働環境に先輩や同僚が次々退職していく中、コツコツと真面目に実績を残してきた。細かな失敗はあるものの、大きなミスはしなかったはずだ。
 だから、窓のない狭いミーティングルームで、課長から子会社への出向が伝えられたとき、会社に裏切られた思いでいっぱいになった。怒りとも悲しみともつかない、みじめで情けない感情だ。課長は、俯いたまま目を合わせることもなく、事実のみを淡々と告げた後、直樹の肩を叩き、無理のある優しい口調で「まぁ、お前はよくやったと思うよ」 と言った。しかし、課長の乾いた優しさが、直樹の会社への思いを削いでしまった。立ち去ろうとする課長を呼び止め、「あの、退職します」 と告げた。デスクに戻ると、その場で退職届を書き提出した。
「なんでよ! そんなの辞める理由にならないじゃない」
 香織の反応は意外だった。直樹が仕事に誇りを持っていることを誰よりも理解してくれていると思っていたからだ。会社の理不尽さを、裏切り行為を少しは分かってくれるだろうと思っていた。
「いまさら営業なんてできないよ。仕事はたくさんあるから大丈夫、大丈夫」
 言葉を選びながら、なだめるように優しい口調で話し、豚肉のしょうが焼きをわざと大きく開いた口の中に元気よく押し込む。香織は、まだ箸を持ったまま固まっている。
「何を言ってるの。もう、三十七歳でしょ?」
「そんなに心配しなくても。システムエンジニアは特殊技能だから」
 香織は、箸を置くとうつむき、感情を抑えるように低い声でつぶやく。
「これから転職なんて……。お給料も下がるでしょうし、退職金だって……」
 給料と退職金という単語が苛立たせる。直樹は、テーブルに両肘をついて思わず声を荒げた。
「あのさぁ、男はね、生きている時間のほとんどを会社で過ごすわけですよ? やりたい仕事をやって何が悪いんだよ」
 香織の目が見る見るうちに吊り上がり、紅潮したかと思うと、一気に捲し立てる。
「自分のことばっかり。私だって仕事してるじゃない。それに、私、もう三十四よ。子供も欲しいし、家だって……」
 香織の勢いが止まらない。
「そのまま勤めてれば、エンジニアに戻れる可能性だって、親会社に戻れる可能性だってあるわけでしょ? どうして早まったことをしたの? どうして相談してくれないの? どうしてそんなに勝手なの?」
「金さえあれば幸せなのかよ!」
「信じられない!」
 香織は、激高のあまり言葉につまると、立ち上がり、椅子を引き倒して、そのまま出て行ってしまった。グラスの中でビールが大きく揺れて、テーブルクロスを少し汚した。
 こんなつもりではなかった。話せばわかってくれると信じていた。不器用で要領の悪いところがあることは、自分でもよく分かっている。それだけに、どんなことにも真面目に、精いっぱいやってきたつもりだ。手を抜いたことはない。それは香織にだって伝わっていたはずだ。そう思っていたのは、自分だけだったのか。

 六月十七日、午後二時。
 雨は降っていないものの、梅雨の雲が隙間なく敷き詰められて、空全体がぼんやりと白く光っている。昨日、珍しく香織の方から連絡があり、今日会うことになった。話が悪い方に転がっていく予感しかしない。直樹は、白のポロシャツにチノパンという服装で、カジュアルな茶色の革靴を履く。深いため息をついてから、ドアを開けて外に出た。ガスメーターの配管に引っ掛けてあるビニール傘を手に取ると、アパートの階段を降りた。
 香織が家を出てすでに三週間が経っている。何度か電話で話し合ったが、最後にはいつも「もう、疲れたの」 と言って取り合ってもらえなかった。せめて就職先が決まっていれば、香織の気持ちも変えられるのだろうが、就職活動は遅々として進まない。
 待ち合わせは、会社帰りに待ち合わせて二人でよく利用していたカフェだ。香織は、窓際の席がお気に入りで、通行人を眺めながらよく話をした。直樹は、いつもの席に座り、香織が来るのを待ちながら、ガラス越しに行き交う人を目で追っていた。入口のドアベルの甲高い音に振り返ると、香織が入ってきた。髪はしっかりとセットされ、よそ行きのメイクをしている。口紅はいつものよりも鮮やかでくっきりと引かれ、白のブラウスに黒のスリムのパンツをはいている。
「元気?」
「ええ」
 電話では、息をするだけで精いっぱいというような声だったが、いたって元気そうだ。水のグラスを置き、メニューを手渡そうとするウェイトレスに、コーヒーを二つ注文する。
「そか。実家にいるんだろ?」
「ええ」
「みなさんは、お元気か?」
「ええ。おかげさまで」
 香織は、一口水を飲む。直樹は、顔を上げて香織を見る。
「話、しようか」
「はい」
「まず、相談もせずに、仕事を辞めて悪かった。でも、戻ってこない理由がよくわからない」
「それは……」
 香織は、ウェイトレスがコーヒーを運んできたので、急に声を落とす。ウェイトレスは、申し訳なさそうにコーヒーを置いていく。
「戻って来いよ。俺も反省してるし。就職活動だってしてるし」
「まだ、決まってないんだ?」
「うん」
「あのね、私は、あなたが真面目と思ったから、一緒になったのね」
「真面目だろ? 酒は飲むけど、タバコもやめたし、ギャンブルだってやらない」
 香織が直樹を見つめて、言葉を続ける。直樹は、直線的な言葉と視線を嫌って、椅子の背もたれに体重を預け、コーヒーを一口飲んだ。
「そういうことじゃなくて。一緒にいれば、子供を作って、小さくてもいいから家をもって、ずっと幸せに過ごせると思ったから」
「そうしようよ」
「女性はね、三十五歳以上になると、子供を持つリスクがあがるの」
「知ってるよ」
 香織は、女性特有の話をするとき、ちょっと見下すような口調になる。直樹は、そういうときの香織は好きになれない。
「あと、一年しかないのよ? 仕事が見つかったとしても、お給料は下がるでしょうし」
「……」
「子供が生まれたら、私は、しばらくは仕事も難しくなるのよ?」
「何とかなるよ」
 直樹は、言ってすぐに後悔した。香織が一番嫌う言葉だ。そこには意思がなく、取り繕うための嘘だからだ。
「何とか? どうするの?」
「香織も働いてくれるんだろ? 俺も家事、手伝うし」
「じゃ、家は? 今から住宅ローンを借りたら、七十まで働かなきゃいけないのよ?」
「それは、会社辞めなくても同じだろ?」
「退職金、ないじゃない。教育費どうするの? 私たちだって年を取るのよ? 老後はどうするの? 医療費どうするの? ねぇ、どこに幸せがあるの?」
「退職金だけが幸せじゃないだろ」
 ふいに聞こえたBGMに、直樹も香織もコーヒーを飲んで、声のトーンを落とす。
「不安なのよ。不安で不安でしょうがないのよ」
「仕事を辞めたのは悪かった。これから一生懸命働くから」
「もうだめなの。良いイメージができないのよ」
 そう言って、香織はカバンの中から封筒を取り出し、テーブルの上に乗せた。
「離婚届。サイン、してあるから」
「おいおい、一方的すぎ。あと、二週間いや三週間待ってよ。それまでに就職して、具体的なアイデアを出すから」
「もう、決めたことだから。それ、持って帰ってね」
 香織は、コーヒーを飲み干してから立ち上がり、机の上の封筒を直樹の方へ差し出した。

 アパートに帰る途中の空き地に、枯れた蔓草が絡まっているフェンスがある。いつもなら気にならないのだけれども、蔓の先に成っている実に目が留まった。
「朝顔か。なんか懐かしいな」
 独り言を言いながら、カラカラに乾いた茶色い実を採って手のひらに乗せる。指先で軽くつぶすと、中から黒い種が三つはじけ出た。その姿が、なんともかわいらしく感じたので、そのまま自宅に持って帰ってきた。
 朝顔の種をソファーの前にあるローテーブルに置いて、窓を開ける。帰る途中に寄ったスーパーの買い物袋をキッチンに置き、鍵を壁にかける。そのままだらしなくソファーに横になり、テレビをつけると、窓から冷たい風が吹き込んできたなと思ったら、大粒の雨が激しく降り始めた。低く分厚い雲が空を覆い、急に部屋を暗くしたので、のろのろと立ち上がり、照明のスイッチを入れる。そして、窓を閉めて、立ったまましばらく激しく降る雨を眺めていた。蛍光灯の白い光が、細かく瞬いている。
「どうして、こんな風になっちゃったのかなぁ……」
 深いため息の後、冷蔵庫まで歩いていき、缶ビールを二本取り出す。ソファーに深く腰を沈め、プルタブを開けるとビールを一気に煽った。
「何か面白いことはないかな」
 そう口にして、直樹は情けないと思った。立ち止まっていても、面白いことなど降ってはこない。そんなことは百も承知だ。でも、一度に失ってしまったものが大きすぎた。失業してもう一か月近く経つのに、ビジョンが何も見えない。どこに立っているのかさえ、よくわからない。とはいえ、気分はそれほど悪くはない。不幸だとは思わないし、センチメンタルになっているわけでもない。ただ、生きる意味がよく分からなくなっている。
 遠くで雷鳴が轟いている。閃光は見えない。空で誰かが怒りをぶちまけているんじゃないかと思うくらい、低くよく響く声だ。大粒の雨が、猫の額ほどのベランダの床を激しくたたく。グラスの中身が、いつの間にかワインに変わっていた。もう、何杯飲んだかわからない。今が何時なのかもよくわからない。床に座り込んでソファーを背もたれにしながら、グラスを握りしめる。このまま溶けて、雨と一緒に流れていければ楽になれるのに、と思えるほど意識が朦朧としているが、それが心地よくて、安心する。
 直樹は、グラスの横に転がっていた朝顔の種を手に取った。黒くて固い種を親指と人差し指でつまみ、その間でコリコリと転がす。ぐっと力を込めた時の鈍い痛みが、酔った指先に気持ちいい。そして、目の高さまで持ち上げて、しばらくじっと見つめた。
 真っ黒だと思っていたその種は、焦げ茶色だった。蜜柑の一房のような形をしていて、ちょっとおいしそうだ。口に入れて奥歯で噛み砕いてみる。硬い上に雑味ばかりで、カスが口の中に残って気持ちが悪い。ティッシュの上に吐き出して、ワインで口直しする。
 次の一つをつまみ上げ、また、指の間でコリコリと転がしてみる。これを土に埋めれば、割れて、双葉を付け、葉を開き、根と弦を伸ばして、夏を迎えるころには涼しげな花を咲かせる。そして、秋にはまた焦げ茶色の種に戻る。この小さな塊の中に、そんな魔法のようなプログラムが詰まっているのだ。財務処理を自動化する単純なアプリを作るために、膨大な時間をコンピュータの前で過ごしてきたのに、なんだかちょっと嫉妬する。
 空いている方の指先で臍を大きく開き、大きな皺に朝顔の種を深くねじ込んだ。種は、びっくりするほどすんなりと臍の皺の中に沈んでいった。酔っているせいかその様子がとても滑稽に思えて、自然と笑い声が漏れた。
「へへっ、へへへ」
 そして、グラスを傾け、臍をワインのしずくで満たした。
 そこで意識がアルコールの泥の中に沈んでいった。

 香織と会ってから、二週間過ぎたが、仕事はまだ決まっていない。条件がどうしても折り合わないのだ。プログラマーが増えたことと、コンピュータそのものが進化して、開発が昔ほど難しい作業ではなくなったことが大きく影響している。給料の額に目をつむれば仕事がないわけではない。しかし、それではダメだ。
 七月一日 午前十一時。久しぶりに青空が広がっていた。直樹は、後ろ向きの感情を振り払うべくランニングに出た。しかし、たっぷりと水分を含んだ空気のせいなのか、百メートルも行かないうちに息が切れ、大量に汗が噴き出てきた。汗は脂と湿気と混じり合い、粘度の高い液体となってまとわりつく。焼けたアスファルトからは、熱気が立ち上り、ゆらゆらとかすむ逃げ水が気持ちを逆なでする。
 住宅街の整然と並べられたブロックを縫うように走り抜けると、千四百年前に偉い僧侶が作ったというため池に出る。その周囲は約三キロの遊歩道になっていて、ランニングにはもってこいだ。いつもなら水際の涼しさの中をリズムよく走るのだけれども、今は重力に負けて体が押しつぶされそうだ。
 切れそうな気持ちをかろうじてつなぎつつ、緩やかな坂を上り切り、最後の角を曲がると、アパートの青い瓦が見えた。足を速める。一秒でも早く部屋に入り、シャワーを浴びたかった。金属製の階段を足音が響かないように気を付けながら一気に駆け上がり、二○三号室の色あせたクリーム色のドアを勢いよく開けた。
「だぁ」
 靴を脱ぎ、Tシャツを脱ぎ捨てる。部屋のひんやりとした空気が、気持ちと体を落ち着かせてくれる。ジャージと下着と靴下を同時にずりおろして浴室に入ると、シャワーの温度を三十九度に設定して蛇口を大きくひねった。時間をかけて湯を浴びた後、頭皮を念入りにマッサージしながら髪を洗い、体の隅々にまでボディソープを塗りたくって、ねっとりとした汗と脂と匂いをこすり落とす。
「ふぅ」
 結婚を機にタバコをやめたが、ストレスと手持無沙汰から、大量の飴とガムを口にしたため、一気に五キロも太ってしまった。ボディソープの泡を流しながら、たるんだ腹をまじまじと見つめ、忌々しい肉の塊をゆがめたり、引っ張ったりしてみる。
「醜いねぇ」
 何かが視界に入った。
「ん?」
 注意しながらもう一度自分の腹に視線を注ぐと、臍の底に黒いものがへばり付いている。シャワーの湯に打たれながら、じっと臍の底を見つめる。記憶の断片がよぎっていくのだが、はっきりとは思い出せない。
 シャワーを止めることも忘れて、臍をしばらく覗き込んでいた。
 規律のない生活を続けていると、次第に時間の輪郭があやふやになる。最近では、朝食をいつ、何を食べたかすらすぐに思い出せない。脳の皺の隙間から、記憶の断片を引きずり出し、過去を再構築していく。ひたすら続く梅雨空、雨の音と湿った空気。
 指先に鈍い痛みが滲み上がってきた。
「いや……そんなことある?」
まだ黒い種の皮を被ったままの芽が、臍の皺から頭をもたげている。日が当たっていないせいか、茎になる部分がまだ白く弱弱しい。
 直樹は、シャワーを止めて浴室から出ると、ボクサーパンツとバスタオルを取ってリビングに移動する。歩き方も慎重になる。妊婦ってこんな気持ちなのか。タオルが芽に当たらないように、体を叩くようにして水滴を落としていく。体を折り曲げすぎないように神経を使いながら、ボクサーパンツをゆっくりと持ち上げた。上半身は裸のまま、グラスに水を汲むと一気に飲み干し、カーテンを開いて大きく深呼吸する。窓から差し込む強い午後の陽ざしが臍に当たるように床で横になった。腹のあたりが温かくて気持ちいい。
 天井に目をやると、ベニヤ板にプリントされた偽物の木目がぐるぐると渦を巻いて、静かにこちらを見下ろしている。木目の目とじっと見合い、静けさを聞く。笑いが湧いてきた。泉から水が湧き出るように、笑いがあふれだして止まらない。弱ったエビのように床の上で跳ね回る。そして、いつの間にか涙があふれていた。笑いながら、涙を流していた。これまで触れずに来た、胸の奥底にあった切ない想いがこみ上げてくる。
「何してんだ? 俺は」
 直樹は、体を起こし、臍を指で開いて朝顔の芽を見た。濡れたせいか、種の殻が外れ双葉が開こうとしている。プログラムを実行しているのだ。湿った双葉は、幼い黄緑色だけれども、力強く見えた。
「ふぅ……さて」
 立ち上がると、Tシャツと短パンを着て、机の前に座り、椅子を引いて姿勢を正す。引き出しから離婚届と印鑑を取り出した。
 梅雨明けはまだ先なのに、一匹だけせっかちなセミが鳴き始めた。

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